『田中君、写真集の撮影だけど、どこがいい?』
『ニューヨークとジャマイカにいきたいです』そう答えたのは1992年のこと。
最終的な場所はニューヨークとマイアミになった。
『マイアミ?』私は詳しくその場所を知らなかった。
『ごめんね田中君、ジャマイカは航空券とれなかったんだよ』担当者が言った。
この旅行は写真集の撮影の他にダンスビデオの収録も兼ねていた。
ダンスビデオはニューヨークのみで収録がおこなわれ写真集と合わせ2週間の滞在だった。
連日撮影終了後、私はマネージャーと現地コーディネーターと一緒にナイトクラブに繰り出し毎日睡眠は2~3時間だった。
(ニューヨークのクラブについては改めて記述したい。)
コーディネーターが様々なローケーションをあらかじめ用意してくれていたので撮影は順調に進んだ。
その中で強く印象に残った場所がある。
ハーレムにあるアポロシアターだ。
荘厳だった。
私は日本でアポロシアターで踊っている黒人2人組の映像をビデオでみてはいたが実際劇場にいくと視覚、嗅覚、聴覚、皮膚感覚で感じるアポロシアターが持つ磁場の威力を体にくらった。
アポロシアターが醸し出す独特の雰囲気が私の体の周りを圧迫した。
絨毯に染み付いているソウルフードの匂いなのか名だたるソウルアーティスト達の残光かはわからない。
ただ異質で他とは違うものを感じたことは確かだ。
私はカメラのフラッシュが焚かれる中、一人舞台の真ん中に座り3階席まである高い天井をみつめていた。
『ここで踊れたら最高だな..』そんなことを思っていた。
アポロシアターでの撮影は無事終了し名残惜しくも劇場を後にする際、私はもう一度アポロシアターに来るぞと心に刻んだ。
それから、8年の月日がたった。
この間私はダンスのインストラクターをしていた。
そして知人の紹介でアポロシアターのオーディションの話を聞いた。
オーディションは指定された日時にハーレムにあるアポロシアターの劇場の前に並び
アポロのスタッフの人達に作品を見てもらう機会。
アポロシアターの中に入り英文の文書にサインして提出したら待機。
オーディションの番号が決められ自分の番号が呼ばれたら部屋に入りパフォーマンスを披露。
このオーディションに合格した人が週間チャンピオンをかけて最初のアポロシアターのステージに立てる。
そして週間チャンピオンに出場した12組の中から上位4組だけが次の月間チャンピオンを決めるステージに進める。
この月間チャンピオンをかけて争う12組の中から上位4組だけが3ヶ月に1回開催される季刊チャンピオンを決める次のステージに進める。
そして季刊チャンピオンの争いで上位4組に入ると年1回だけ開催される
スーパートップドックのステージに立つことができる。
このようにアポロシアターのステージはライブでパフォーマンスを行いふるいにかけられるシステム。
審査をするのはその時来場していたオーディエンスの拍手や歓声。
音量は騒音測定器でアポロのスタッフが測定する。
結果として私はすべてソロパフォーマンスで勝ち上がり
年末最後のスーパートップドックの出場を決めた。
私は日本からアポロで踊るたびにニューヨークに行ってたのでこの年はオーディションを含め5回日本とニューヨークを行き来した。
私はこの年6月末にアポロで季刊チャンピオンになっていたので年末12月のスーパートップドックに出場する間少し時間があいた。
その間日本で毎週地元の子どもたちにダンスを指導していた。
ニューヨークのアポロシアターにチャレンジするには勝ち続けた場合、長期に渡る。
アポロシアターで勝ち上がればその都度賞金がもらえる。
アポロシアターに挑戦し出場するということは時間と金銭的な余裕を持ち合わせておく必要がある。
それと自発的なモチベーションとなるモチーフに出会うことが大切だ。
私は最初に撮影でアポロシアターに訪れた時『ここで踊れたら最高だな..』とモチーフを得られた。
アポロシアターの劇場に又来るということを心に刻印した事が8年後、再びアポロシアターに行く行動に繋がった。
オーディションを受けれるというチャンスにも恵まれた。
私がアポロシアターのステージにたったのが2000年。
それから15年たった。
アポロシアターという異国で異質な場所で4回ステージに立った経験は
私のそれまでの価値観を覆し、その後の生き方を変える機会になった。
大切なことは挑戦することです。
成果や結果は挑戦した後に得られます。
田中 傑幸
この年アサヒスーパドライのラジオコマーシャルに出演させて頂いたので自分の軌跡として公開いたします。
よろしければお聞きください。
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